脳腫瘍診断を概念から革新し、
克服に向かって力強い一歩を踏み出す。

「脳腫瘍」は大脳・小脳といった脳の大部分を占める脳実質のほか、髄膜、脳神経などにできる腫瘍の総称だ。原因はいまだ不明で、悪性度の高い脳腫瘍が他臓器でがんと呼ばれるものに相当する。悪性脳腫瘍は治療が難しいことで知られ、最も悪性度の高い膠芽腫では患者の半数が1年半〜2年半で生命を落とすほどに予後が悪い。

初発症状が風邪に似ていることもあってか、病気が進行してから見つかるケースが多く、他の部位のがん同様に早期発見技術の確立が急がれている。

新しい検査技術の研究が世界各国で進む中、2018年から国内で始まったのが被験者の尿を使って脳腫瘍の遺伝子を見つける画期的なリキッドバイオプシー(※1)技術の開発だ。これによりわずか1mlの尿があれば脳腫瘍検査が可能となり、早期発見および遺伝子治療の発展につがなるのではないかと期待を集めている。

医療ベンチャー発のこのプロジェクトに、脳腫瘍の専門家として参加しているのが河村病院脳神経外科部長の夏目敦至先生だ。患者の生死に向き合う外科医としての顔と、先進技術の開発に挑む研究者の顔を併せ持ち、脳腫瘍治療の最前線で戦い続けている。

診断も治療技術もいまだ発展途上という険しい道

原発性脳腫瘍(※2)には150以上の種類があり、たどる経過のバリエーションも多種多様だ。幅広い種類の腫瘍を正しく分類し、適切な治療につなげるためのガイドライン(※3)の整備が急務だが、その道のりは険しいという。

もちろん脳腫瘍の診療にもガイドラインはあります。しかし現在の完成度は50%以下で、まだまだ発展途上といえる内容です。明文化された教科書やマニュアルのようなものがない領域ですから、現場の医師はそれぞれの患者さんごとに臨機応変に適切な対応を取るほかありません。

数あるがんの中でも、脳腫瘍はとりわけ早期発見が難しいがんとして知られる。それはどういった理由からなのだろうか。

初発症状として最も多いのが頭痛で、その次に吐き気、けいれん発作と続きます。けいれんを起こすとさすがに「これはおかしい」となりますが、頭痛や吐き気は日常的に見られる症状ですから、見逃してしまいがちです。医師の側でも脳腫瘍を診断する頻度が少ないこともあって、病状が進行するまで見つからないケースが多いのです。

さらに悪性脳腫瘍は希少がんに分類されており、症例数の少なさが標準治療の確立を阻む大きな要因となっている。

特定の治療法の効果を調べるためには、同じ病気にかかった別々の患者さんに既存の治療法と新しい治療法をテストして比べる方法が一般的です。しかし患者さんの絶対数が少ない脳腫瘍はこうしたテストが実施しにくく、なかなかエビデンスレベル(結論の強さ・確かさ)が高まりにくいという問題を抱えています。

症例数が少ないという脳腫瘍の特徴は、もう一つ別の問題をはらんでいる。若い外科医の成長機会が少ないという点だ。

脳腫瘍は種類が多い上にいろいろな場所にできますから、外科医はとにかく手術の場数を踏むしかありません。先日私は眼球に発生したがんの手術を手がけましたが、経験のない医師であれば「こんな腫瘍どうやって取ればいいのだろう」と当惑するほかないでしょう。見たこともなければ文献で読んだこともない手術ができるはずもないですからね。

さらにカテーテルを用いた手術など、近年の医療技術の進歩が思わぬ影響を及ぼしているという。

例えばくも膜下出血は、その多くが動脈瘤の破裂によるものです。この出血を止めるために我々脳神経外科医が手術を行うのですが、近年は侵襲度の低いカテーテルを使った新しい術式(※4)が採用されるケースが増加しています。患者さんの負担が少ない治療法ですから普及そのものは望ましいことではあるのですが、その一方で従来型の頭を開いて行う手術が減ったことで、若手医師が一歩二歩踏み込んだ手技を経験することが難しくなってきています。外科医の技術習熟の難しさも、脳腫瘍を難治性にしている要因の一つです。

教科書を書き換えるインパクトを与えた研究成果

夏目先生は脳腫瘍の専門医という顔のほかに、研究者としての顔も持つ。2015年には英国「ネイチャー」誌に取り上げられた論文が反響を呼び、特に悪性の脳腫瘍の1つであるグリオーマの診断については「世界の脳腫瘍の教科書を書き換えた」といわれるほどの業績を残した。そんな夏目先生が2018年から取り組んでいるのが、尿を用いた新しい脳腫瘍の検査技術だ。

近年、血中の遺伝子を調べることでがんを見つける検査技術の開発が進んでいますが、我々が扱う尿は血液に比べて異物や不純物が少ないこともあり、よりシンプルで確度の高い遺伝子抽出・解析ができます。この技術はすでに大腸がん、肺がん、胃がん、乳がん、すい臓がん、食道がん、卵巣がんの検査で実用化されていて、脳腫瘍についても実用化の数歩手前のところまで迫っています。

ベースとなったのは名古屋大学工学部で開発された技術で、ナノ加工技術を応用して尿に含まれる脳腫瘍の微量なDNAやRNAのゲノムを効率的に抽出するリキッドバイオプシーとして注目を集めている。

この新技術により、超遠心法など従来型の尿検査では不可能だったわずか1mlという少量での検査が可能になります。困難とされている脳腫瘍の早期発見だけでなく、患者さんごとに異なるがんを狙い撃ちする分子標的療法(※5)の発展にもつながるのではないかと期待されています。

長年、腫瘍は病理医が顕微鏡をのぞいて行う組織診断によって分類されてきた。しかし現在、他部位のがん治療で成果をあげている、遺伝子異常に起因するがんの解析と分類の導入が、原発性脳腫瘍においても始まっているという。

種類の多い脳腫瘍は、診断がどうしても曖昧になってしまいます。そのためその先の治療も医師ごとに判断が異なる曖昧なものになりがちです。この検査技術の実用化でより確実な遺伝子診断の発展に寄与するとともに、その簡便さで検査にアクセスできる患者さんの数を増やすことができれば、ここしばらく横ばいが続いている脳腫瘍の治療成績を大きく向上させるきっかけになるかもしれません。

この開発プロジェクトにメディカル・アドバイザーという形で参加した夏目先生。技術開発の過程ではどのような懸念があったのだろうか。

脳腫瘍は膀胱から最も遠い場所にできるがんです。さらに脳には脳血液関門と呼ばれる機能があり、外との物質の出入りを制限しています。脳腫瘍のがん細胞から放たれたDNAやRNAがこの関門を突破し、遠い膀胱まで果たして届くのか。そうした基礎的な疑問への答えを見つけることから始め、一歩ずつ開発を進めていきました。

開発は名古屋大学発の「Craif(クライフ)」というベンチャー企業とともに進めている。

Craifは50名あまりの若いメンバーで構成されている企業です。医学や工学、生命科学、薬学などの専門性を持ちながら、総合商社や戦略コンサルでの実務経験を有するなど、さまざまなバックグラウンドを持つ多国籍なメンバーが集まっていて、非常に面白い組織です。私は脳腫瘍の専門家としてアドバイスを行う立場ですが、とても刺激的な経験ができています。

メスとペンの二刀流で 患者のために“知”と“技”をつなぐ

脳腫瘍手術のトップランナーである夏目先生を頼って、多くの患者が全国からこの病院を訪れる。医師として多忙な日々を送りながらも、研究者として新しい医療技術の開発に積極的に取り組むそのモチベーションは一体どこから生まれるのか。

私のところには他の病院で断られた患者さんや、再発を繰り返して「もうなす術がない」と告げられた患者さんが藁にもすがる思いでいらっしゃいます。私は医師として「なんとしても治したい」という気持ちで懸命に治療に取り組みますが、残念ながら他界される方をゼロにすることはできていません。そうした患者さんを「どうにかして治せるようにできないか」と常日頃から考えている私にとって、研究者としての活動は非常に重要です。医師か研究者かどちらかだけを選ぶことはできないですね。

夏目先生のように臨床医療と基礎研究に携わりながら、それらをつなぐ橋渡しを担う存在を「フィジシャン・サイエンティスト」と呼ぶが、そのハードルの高さから世界的ななり手不足に陥っているという。

そもそも私が脳神経外科を志したのは「治療法が確立されていない未知の分野にチャレンジしたい」という想いがあったからです。確かにハードルは高いですが、もともとやりたかった仕事ですし、特別なことをしているというような意識はありません。

この臨床と研究との橋渡しは、ずっと医療の現場で課題とされてきた。革新的な医療技術のタネ(シーズ)が研究機関で生み出されても、事業化されて患者の元に届くまでに通るべき関門が数多くあるためだ。

私は1999年に米国ピッツバーグ大学に遺伝子治療を学ぶために留学したのですが、当時すでに臨床と研究との間に横たわる溝を乗り越えようとする機運が高まっていました。数億円を投じて生み出されたシーズが、患者さんに届かないまま放置されている。そのような「死の谷」が問題視され始めていました。

Craifとともに開発を進める尿のリキッドバイオプシー技術の実用化へ向けた動きでは、まさに夏目先生が持つ貴重な知見が活用されている。

かつては厚生労働省、文部科学省、経済産業省が縦割りで行ってきた予算配分を一元化し、大学、研究機関、民間企業による「医理工連携」が実現できるようになったのは、近年の日本の大きな進歩だと思います。脳腫瘍の早期発見による予後改善は、我々が目指す大きな目標の一つです。できるだけ早く多くの患者さんにこの技術が届くよう、今後も尽力していきたいと思います。

患者を治療すること、そして安心させることこそが医師の使命

夏目先生の診療は、患者との距離の近さが特徴的だ。担当する患者に対してプライベートのメールアドレスを渡し「わからないことや不安なことがあれば何でも連絡してください」と伝えるのだという。

今のご時世「私的なメールアドレスを患者さんに教えるなんて!」と言われそうですが、これにはもちろん理由があります。近年、医療不信というキーワードがメディアで取り上げられる機会が多いですが、経験上、不信の源をたどると医師と患者さんのコミュニケーション不足に起因することがほとんどです。医師を信用できない状態では、治療の成果も最大化できません。その問題を未然に防ぎ、より良い治療を提供していくための工夫ですね。

患者にしてみれば聞きたいことが山ほどあるのに、入院中「先生が全然会いにきてくれない」という不満が積もり不信につながるのだと先生は話す。それは退院後に通院する患者も同様だ。しかし多忙な身で、多くの患者たちとやり取りをする余裕はあるのだろうか。

術後の患者さんは不安な日々を送っています。この先治療はどう進んでいくのか、退院後に飛行機に乗ってもいいのか、髪の毛を染めてもいいのか…。患者さんは自分の身に何が起きているのかを完全に把握できているわけではありませんから、そういった些細なことでも、どうしても心配になってしまいます。私がメールに返信するだけで安心して前向きに治療に臨んでいただけるのであれば、その程度のことはお安い御用です。

最後に脳腫瘍治療の今後について聞いた。

先端治療開発の研究は進んでいますが、抗がん剤と手術による治療が主体であることは当面変わらないと思います。抗がん剤の種類の増加、医師の手術のスキル向上などの課題が残されているものの、それと並行してやはり診断の確度向上に努めるべきです。取っていい腫瘍と取ってはいけない腫瘍、必ず取らなきゃいけない腫瘍、その線引きが医師任せになっている現状では、均質な医療の提供は難しいですから。

脳腫瘍治療では放射線治療も選択肢となるが、副作用や後遺症の可能性があり、不安に思う患者も多い。

以前の私は放射線治療について「機械さえあれば誰が動かしても一緒」と考えていましたが、ここ数年で治療を計画する医師の力量によって大きく変わってくることがわかりました。現在では脳腫瘍の生物学的特徴を理解し、患者さんごとに異なる経過に合わせて適切な放射線治療を行う経験豊かな先生とタッグを組み、トータルな治療を提供できる体制を整えています。

脳腫瘍にいち早く気づくため、日頃から私たちにできる心がけなどはないのだろうか。

頭痛や吐き気は誰にでもあります。ただ私の経験上、普段から患者さんをよく見ている看護師の「いつもと何か違う」という違和感は当たっていることが多いんです。皆さんもご家族の様子が何か変だなと感じたら、その感覚を大切に医師の診察を受けるよう勧めてあげてください。それが大切な人の生命を救うことにもつながります。

理解が深まる医療用語解説

※1)リキッドバイオプシー

血液や尿、唾液などの体液に含まれるがん細胞の遺伝子情報を解析することで行われる検査方法のこと。がんのほか認知症の早期発見にも用いられている。

※2)原発性脳腫瘍

脳細胞や髄膜などの頭蓋内、および脊柱管内に発生した腫瘍を総称してこう呼ぶ。これに対し、他部位にできたがんが脳転移してきた場合は転移性脳腫瘍と呼ばれる。

※3)ガイドライン

試験を重ねて得られたエビデンス(科学的根拠)に基づき、最適と考えられる治療法(=標準治療)を提示する文書のこと。医師と患者が治療方針を意思決定する際の重要な判断材料となっている。

※4)マイクロカテーテルによるコイル塞栓術

足の付け根から挿入した細いカテーテルを脳動脈瘤まで進め、カテーテルの先につけたコイルと呼ばれる詰め物により血液の流入をなくしてしまう術式。患者にかかる負担が少ない治療法として2010年代から広がりはじめた。

※5)分子標的療法

近年の研究で、がんは遺伝子の突然変異により引き起こされることがわかってきた。この変異した遺伝子をターゲットに投薬などを行う治療法が分子標的療法だ。従来の治療に比べ副作用を抑えつつ高い治療効果が得られる治療法として研究が進んでいる。

プロフィール

河村病院
脳神経外科部長
夏目 敦至 (なつめ あつし)

プロフィール
1995年に名古屋大学医学部を卒業。以降外科医として患者の治療にあたる一方で、毎年10本以上の論文を発表し続けてきた脳腫瘍の分野におけるオピニオンリーダーである。米国脳腫瘍学会機関誌編集委員、日本癌学会機関誌副編集長、日本癌学会評議員、脳腫瘍診療ガイドライン拡大委員会委員など、多くの学会で役職についている。

1995年 岡崎市民病院 勤務
1999年 米国ピッツバーグ大学留学
2002年 刈谷豊田総合病院 勤務
2003年 名古屋大学医学部附属病院 助手
2007年 名古屋大学医学系研究科 脳神経外科 特任准教授
2010年 名古屋大学医学系研究科 脳神経外科 准教授
2021年 名古屋大学未来社会創造機構 特任教授
2021年 Craif 株式会社 Medical Affairs ディレクター就任
2021年 河村病院 脳神経外科 部長


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