真に有効な治療を求め、臨床研究を通じて医師、患者を支える。

近年、うつ病治療において、認知行動療法(*1)が大きな注目を浴びている。

そんな中、スマートフォン治療アプリを開発するなど、 うつ病治療のフロントランナーとして活躍する京都大学大学院の古川教授に話を伺った。

うつ病治療の選択肢としてCBT(*2)に期待高まる

2017年11月16日付の読売新聞夕刊に 「認知行動療法 アプリで 京大チーム開発 患者4割抗うつ効果」との見出しで報じられた記事は、 うつ病に苦しむ患者をはじめ医療関係者の間で大きな話題を呼んだ。

このスマートフォンアプリの開発を手掛け、 臨床試験によって効果を実証したのが京都大学大学院医学研究科の古川壽亮教授(医学博士)である。

認知行動療法(以下CBT)は薬物治療と並ぶうつ病治療の二本柱の一つ。
イギリスのガイドラインでは、軽症のうつ病治療の第一選択とされているほど世界においては普及しているが、 日本は2010年に保険適用になったものの、実際に提供できる専門家は極めて少ない。

「私たち研究者も厚労省から委託され、 日本において適切にCBTを実践できる医師を育てようと取り組んではいるのですが、 およそ1万2000人いる精神科医のうち、 厚労省が実施しているCBTに関する研修を受けたのは1割程度でしょうか。

知識や技能を身に付けるのに時間がかかる上に、 治療自体も1時間×16回の対面セッション(*3)が標準的に必要であり、 労力に対して医師への経済的な見返りが少ない点が広がらない要因でしょう」

キャッチフレーズは“治療者をポケットの中に”

こうした状況の中、 期待されているのがパソコンやスマートフォンといった情報通信技術を用いたCBTだ。

「“治療者をポケットの中に”をキャッチフレーズに私たちが開発したスマホアプリ『こころアプリ』は、 携帯性に優れたスマホで認知行動療法が行えるため患者さん、 ドクター双方にとって治療を効率的に進められるメリットがあります。

被験者はアプリ内に出来事とその時感じた不安などを記録し自身の思考パターンに気付いたり、 『鼻歌を歌う』『お風呂に入浴剤を入れる』といった気分が上がる方法をリストから選び、 実際に試すことで行動活性化(*4)と呼ばれるスキルを練習します。

わざわざパソコンを立ち上げなくても電車の待ち時間や昼休みなどにフレキシブルに使えるのがスマホアプリのいいところで、 実際、被験者の利用状況を分析すると1日につき3分×10回など細切れに活用していることも分かりました。 CBTを普段の生活の中に無理なく取り入れ、 病院に通う時間や手間、心理的負担を減らすことができるので非常に有効なツールといえるでしょうね」

ただし、注意しなくてはいけないこともあるという。

「世の中にはこうした類のサイトやアプリが溢れていますが、 専門家のフィードバックなしに使っても効果は低いということです。 専門家が患者さんの状態を見て“処方”し、必要に応じてアドバイスをすることが前提です。

医師のアドバイスがあるため、 慢性期の患者さんだけでなく急性期(*5)にも対応できるのも『こころアプリ』の特徴です。 アプリは対面セッションを補完し、受診プラスαで活用するものとご理解ください」

世界初!「スマホCBT」併用の有効性を実証

臨床試験で古川教授らのチームは、抗うつ薬治療が奏功しない患者に対し、 薬の変更に加えスマートフォンCBTを併用すると治療効果がさらに上がることを世界で初めて実証(*6)した。

チームはうつ病患者計164人のうち、81人を変薬+こころアプリ、83人を変薬のみのグループに分け、 8週間のプログラムを実施。結果、重症度の点数が半分以下に改善した割合は前者が42%と、後者(21%)の2倍に上った。 ほぼ正常な気分に戻ったことを示す寛解率も前者は31%、後者は18%と、はっきりと有意差がついた。 古川教授は

「抗うつ薬が効かない場合、現在の日本では”違う薬に変更する治療“が選択されがちです。 今回、スマホを利用したCBTを組み合わせた方が、 標準治療単独よりも効果が高いことを示せた意義は大きいです」

と話す。 また教授は、これまで研究されてこなかったCBTとうつ病の重症度との関係にも着目。 CBTが症状の重い人にも有効であることを臨床試験(*7)で明らかにしている。

真に有効な治療法を探るべく、地道に試験を積み重ね、 医師の判断の“拠りどころ”かつ患者の“選択肢”を広げる質の高いエビデンス(*8)を次々と発信している古川教授。

東京大学医学部卒業後、もともとは臨床医として何千人もの患者を診ていた中で、 なぜ研究者に転身したのか。その理由を次のように振り返った。

EBM(*9)に感銘を受ける

「名古屋市立大学の研修医だった私の最初の赴任先が豊橋市民病院でした。 ここはうつ病の患者さんが多かったのですが、薬が効かず通院が2年以上に及ぶ方が増えていく中で、 『果たして適切な治療を行えているのか?』との疑問にとりつかれました。

その答えを探す過程で出会ったのがEBMです。 集積された治療データを個人に応用して医療を組み立てるEBMの重要性に目を見開かされる思いでした」

奇跡の出会いから認知行動療法の道へ

1999年、名古屋市立大学の教授に就任した古川教授は “CBTこそがEBMが示唆する精神療法”として教室で取り組むことを決意する。 しかし、周囲に行える人がおらず、 勉強法すら分からないまま迎えた2000年、ある共同研究の打ち合わせでロンドンへ出向いたことが転機となった。

「現地の教授に、友人が来るから一緒に会食でも、とお誘いを受けたんです。 その友人というのがCBTの専門家であるギャビン・アンドリュース博士(ニューサウスウェールズ大学)でした。

じつは以前、彼のもとで勉強させていただいた経験があり、 偶然の再会によるご縁でトントン拍子に留学が決まり、シドニーにある臨床研究ユニットで学ぶ機会に恵まれたんです。

思い返すと、私たちが開発したスマホアプリに通じる“インターネットを介したCBT”は、 アンドリュース博士からアイデアの種をいただいたようなものかもしれません。 国土の広いオーストラリアは“遠隔治療”の先進国ですから」

CBT創始者らとの出会いが大きな転機に

2007年にはCBTの創始者であるアーロン・ベック博士(※10)の娘・ジュディス・ベック博士 らが実施したCBT指導医育成のための研修プログラムに参加。

「患者さんとの面接を文章に起こしてフィラデルフィアにあるベック研究所に送り、 スーパーバイザーの先生から実践についての指導や評価をしていただきました。 ベック博士の実際のセッションを収録したDVDにも衝撃を受けましたね。

まさに百聞は一見に如かずで、発問の仕方や患者さんとのやり取り、 全体の構成など、本に書いてあるのはこういうことだったのかと初めて腑に落ちました。 私にとってシドニーとフィラデルフィアでの研修はまさにアハ体験(*11)でしたよ」

身近な人がうつ病になったら!?

ここで、うつ病の現状について見ておきたい。
欧米より少ないものの日本の生涯有病率は3~7%。 厚労省によるとうつ病など気分障害で医療機関を受診している人はおよそ112万人(2014年)に上る。

しかし、実際の患者数はこの4倍いるとされ、不調のサインに本人が気付いていないケースも多いという。 では、家族や友人などの言動から「うつ病」かどうかを見分ける方法、掛けてはいけない言葉はあるのだろうか。

「いちばんの兆候は不眠です。他にも口数が減ったり、 例えば趣味であったはずの釣りに行かなくなったりするなど、今までと違う言動が見られたら注意が必要です。 本人が受診を嫌がる場合は『うつ病だ』と決めつける言い方をせず 『眠れないと身体に毒だから、お医者さんに相談に行こう』など症状を和らげる方策としての受診を勧めてください」

CBTにおける声掛け「頑張れ!」の意味とは・・・?

よく聞く“うつ病の人に対して『頑張れ』と言うのは厳禁”という説は?

「これはYESのようでYESではないです。 うつ病の人は自分でできそうなことを全て行い、 それでも上手くいかないからうつ病になるのです。 頑張りきった方に対して励ましや叱責をこめた『頑張れ』はNGです。

一方、CBTにおける『頑張れ』は“違うやり方を試しにやってみませんか”というもの。 別の見方を促す『頑張れ』ならOKです」

大きく広がるCBTの可能性

最後にCBTの未来像について伺った。

「慢性だけでなく急性のうつ病にも効果が見られること、再発率が低いことなど、 CBTの有効性についてはすでに多くのエビデンスが蓄積されています。

さらにパニック障害や社交不安症、糖尿病、不眠症、慢性疼痛など、さまざまな治療場面でCBT的アプローチが求められています。 乳がんサバイバーのためのスマイル・プロジェクト(下記参照)にて提供しているアプリも、 私たちの開発した『こころアプリ』から派生したものなんです」

古川教授はまた、うつ病を富士山に例え

「CBTは2、3、4合目の、いわゆるうつ病予備軍の人にも有効。 今行っている臨床試験では、大学生にハイストレスの段階でアプリを活用してもらい、 うつ病予防効果を検証しています」

と新たなエビデンス創出に心血を注いでいる。 被験者を高校生に広げ有効なデータを得られたなら、 増える10代のうつ病、児童精神科医不足といった社会問題の解決につながるかもしれない。

CBTの実践、普及、応用、そしてエビデンスの蓄積。臨床医から臨床研究者となり、 そのキャリアステップとともにCBTの可能性を広げ、 新境地を開き続けてきた古川教授。これからの挑戦について尋ねると、

「『こころアプリ』を保険適用の医療機器(*12)として認めてもらい、 CBTの普及を促すツールにしたい。目標は5年後の2024年です」

と力強く前を向いた。 前述のアンドリュース博士からもらった”アイデアの種“を見事に開花させた古川教授。 今度は自身が研究者としてエビデンスを作り上げながら、CBTの未来につながる種を蒔き続けている。

コラム

乳がん患者のための『SMILE project』に、古川先生のアプリが使われています!

2018年、名古屋市立大学大学院の明智龍男教授らの研究チームが立ち上げたプロジェクト。 スマホアプリを用いて日常生活の困り事を解決し、 活動の幅を広げることで、乳がん再発の不安をどれくらい和らげることができるのかを調べる研究。 詳細はこちら: https://smile-project.org

理解が深まる医療用語解説

(*1)認知行動療法

精神療法の一つで、患者の認知(ものの考え方や受け取り方)に働きかけて気持ちを楽にする。

(*2)CBT

Cognitive Behavioral Therapy=認知行動療法のこと。

(*3)対面セッション

医師が患者と同じ空間で向かい合い治療すること。

(*4)行動活性化

喜びを感じられる行動の種類を増やすことで、心を軽くする。

(*5)急性期

症状が急に現れ、治療を要する時期を指す。 対して、慢性期は長期的に治療が必要となる段階。

(*6)

「薬物療法抵抗性大うつ病に対するスマートフォンCBTと抗うつ剤併用療法の無作為割付比較試験」。 http://ebmh.med.kyoto-u.ac.jp/flatt/index.html

(*7)

2017年1月19日発行の医学誌『The British Journal of Psychiatry』(電子版)に掲載。

(*8)エビデンス

治療法が、症状に対して効果があることを示す科学的根拠。

(*9)EBM

科学的根拠に基づいた医療(Evidence-Based Medicine)。

(*10)アーロン・ベック博士

1921年、アメリカ生まれの医学者・精神科医。国際認知療法学会名誉会長。

(*11)アハ体験

瞬間的なひらめきや気づきの体験。

(*12)

2014年11月に施行された「医薬品医療機器等法」で医療ソフトウェアが医療機器の範囲となった。

プロフィール

京都大学大学院医学研究科 教授 医学博士 古川 壽亮

臨床医、名古屋市立大学大学院医学研究科教授を経て2010年7月より現職。
日本におけるうつ病治療/認知行動療法研究の第一人者の一人として活躍。
論文、学会評議員、著書多数。

取材先

今回はこちらを訪れました!

京都大学大学院

医学研究科 社会健康医学系専攻 健康増進・行動学分野
〒606-8501 京都府京都市左京区吉田近衛町

http://ebmh.med.kyoto-u.ac.jp/